君も私も何もかも
061:風に攫われてゆく花弁の、最後の一枚
街は騒がしい。港湾部へ近づくほどにある程度の自己防衛手段を必要とするようになる。だがその分安価な揚げ菓子や蜜菓子、ちょっとした違法煙草が手に入るようにもなる。葛自体は静寂の方が好きだが葵はこの騒がしさを活気があっていいじゃないかという。そう言う性質であるから紛れ込むのも上手く、口に出せぬ裏稼業でも葵はよく日雇いに扮している。その騒がしさに変化はないはずなのに葛はどこか落ち付かず席を立ったり接客カウンターへ移ったり自室へ引き取ったりと意味のない行動を繰り返す。何がおかしいのか判らない。それこそおかしいのは己かもしれないのだ。
「たっだいまー! 腹減った―飯残ってるー?」
堂々と写真館の表玄関から機材をガチャガチャ言わせて葵が帰宅した。葛はため息をつくとぼそりと呟く。
「騒がしい」
耳の奥にいつまでも殷々と声が残る。葵の声は特徴的であるということもないのに葛の中で葵の声は何故だか大多数に紛れたりはしない。
食事は作って取り分けてある。それを伝えるために階上の自室から階段を下りるとそれを見つけた葵がすぐさま食いついてくる。
「葛ちゃーんおなかすいたよー。お茶菓子もくれないんだもんな、お茶も出ないし! 喉渇いた」
「だったら喋るな余計に渇く。昼食は先に取らせてもらったがお前の分は作って残してあるから温め直すなり何なりして食べればいい。氷屋がうろついていたから冷たいものもある。好きにしろ」
ぱぁあぁと葵の顔がみるみる華やぐ。ほえんと笑って葛に抱きつく。
「ありがと! 葛ってほんっとーに気が利くよな! ありがとう大好き!」
不用意に触れてきた葵の体温に葛が動揺しているのを放り出して葵が台所へ飛んでいく。いつも通りのそこに何故だが憂いの気配を感じて葛は思わず葵を呼び止めそうになった。差し伸ばす葛の白い手が中空を彷徨う。馬鹿馬鹿しい。なんの根拠も理由もない。葵が飛びついてくるのも食事を愉しみにするのもいつも通りだ。葛が納得のいかない何かを無理矢理呑みこんで葵が放り出していった機材を片づけ始めた。
それから数日の間が空いて何事もなく葛の違和感だけが肥大していく。
「あ、おかえりー」
葛は言葉を失った。葵が頬に湿布薬を張り、袖をまくりあげた腕には真新しく真白な包帯が巻かれている。葛の目線に気付いた葵がへらりと笑って、ちょっと仕事でドジ踏んでさ、と言う。だがそれ以上は言わない。どんな失敗やうかつだったのかを聞くのは葛にとっては出すぎた真似だ。裏稼業の団体として二人は同じ所属だが、この団体に横のつながりはないと言っていい。誰がどんな任務についているかは知らないし知る権利さえ与えられていない。だから葛も裏の稼業の場合は必要ならば挨拶さえもせずに出かけていくし怪我を負って帰ることもある。
「馬鹿が」
「ひっどいなぁー」
葵がけらけら笑う。軽い。気安いという軽さではなくどこか空々しいのだ。
「だからさ、今夜はごめん。ずっと約束してたのに、悪いけどさ」
閨のことを言っているのだ。同じ屋根の下へ暮らし、まして外部へ痕跡を残すことを極度に禁じられた裏稼業に身をやつしている事情の上で、二人は合理的な判断を下した。熱の発散の相手として互いに白羽の矢を立てた。役割は流動的でどちらがどちらもこなす。そう言えば、と葛は思いだす。不定期にある裏稼業の所為で正確ではないが最近はそう言った方面がご無沙汰だな、と。機会があっても葵が辞退するか、事に及んでもどこか上の空なのだ。やる気のない相手を相手に成立するようなことではないからいつも葛が不満げに引きさがった。葵はやはり、悪い、と苦笑しながら言う。空疎な笑みだ。
変わったことなどない。葵の肉桂色の髪は散髪屋に行けと言いたくなるほど言うことを聞かずに跳ねているし利かん気の強さが見える太い眉筋や通った鼻梁に桜色の淡い唇。留学していたという活動的な性質を窺わせる適度に灼けた肌は有色人種として明確に主張する。服装にも変わりない。肘まで袖をまくりあげてしまうことや秒針までついた硝子盤を嵌めこんだ腕時計。シャツの襟は立てるし吊り紐は腰へぶら下がっている。足首まで守るように無骨な靴を履いてどたどた走る。二・三日の葵を見ているが葛に判ったのはそう言った外見に変化は見られない、という結論だけだった。閨のことは気分次第その場次第であるから責める方が酷である。気が乗らぬ期間もあるだろう。だがそれだけではない何かが侵蝕している。
ざく、と手元が狂った。林檎を向いていた小刀が親指の付け根を切り裂いていた。この林檎は食えんな、と茫洋と思いながら傷を眺めている。ずるりと引き抜かれるナイフにつれて紅い滴がぱたた、と散った。肉の断面が何色か知る前に溢れ出る鮮血が何もかもを覆い隠していく。これだ、と葛は唐突に気付いた。葵の変化は葛が気づく前に覆いかくされてしまうのだ、きっとおそらくは、葵自身の手によって。理由は知らぬ。物事を隠そうとする輩に何故隠すと問うて応えるアホはいない。ぽた、ぽた、と葛は膝に紅い滴を滴らせながらやるせなさの募りともどかしさを噛みしめた。事ここにいたってなお、葛に判ることなど何もないのだ。ただ何か違う、違和感がある、だけでは子供が夜中に便所へ一緒に来てくれとせがむのと大差ない。確証はない。確信だけがある。
「なー葛…って葛! 血! 傷の手当て! ズボンまで垂れてるって、気づけって言うか何してんの!」
葵が慌てて引っ込み次のときには救急箱を抱えてくる。それでも茫洋として何もしようとしない葛の手を取って葵が手慣れた仕草で傷口の消毒や脱脂綿をあてがったり布地を当てて包帯を巻く。
「何かあった?」
椅子に座って作業していた葛の前に葵はひざまずくように膝をついている。顔を上げないから葛から見えるのは肉桂色の髪と旋毛くらいだ。
「何もない」
結論としてはそうとしか言いようがない。見上げてくる葵の表情は泣いているようで笑っているようで諦めているようで。葵の唇が戦慄いたがいい果たせずに引き結ばれた。
「そっか」
手当て終わりー。葵がぽんと包帯の上から軽く叩いて立ち上がると救急箱や道具を片づけ始める。ひょいと林檎をさらって口にする。
「血が飛んでいるかもしれんぞ。汚いから捨てようと」
「だいじょうぶみふぁい」
もごもごと口を動かしながら喋るものだから飴玉を口に含んだ子供のようである。嘆息するのを葵がじっと見つめてくる。その凝視は何かの予兆のように。いつもならばもっと気の利いた返事や鋭い切り返しがある。葵は流れ作業的に林檎を咀嚼し嚥下してはまた新たな林檎を口へ放りこむ。それでいてその双眸はらんらんと煌めいて葛の全てを灼きつけようとでも言わんばかりの。
「あおい?」
ごっくん、と塊が嚥下された。
「ごちそーさま!」
救急箱を持って鳶のように上着の裾やズボンつりをなびかせて出ていく。その背中に聞いてみたかった。葵のあの凝視は出会ったばかりのころを思い出させた。あの頃は互いに腹の探り合い立った。同居しろと言われたが相手についての情報収集は当人同士任せであったからお互いに腹の探り合いが日常化していたのだ。久しぶりのその感覚に肌が震えた。傷ばかりがじくじくと痛んで葛は改めて手当てされた手を見つめた。真白な包帯は葛の白い皮膚に同化しながらもその質感の違いで際立った。
それから幾日か葵と顔を合わせなかった。葛の方に仕事が入ることもあったし葵が抜けることもあった。二人が揃うことが減った所為か、店屋物を頼むひいきの店の看板娘の足さえも遠のいた。一人で済ませる食事が頻繁で、葛はだんだん料理の味が判らなくなっていた。気分不良を起こしてから砂糖と塩を間違えていたことに気付く。腑抜けだ。何が原因かは判っている。葵の不在だ。たぶん二人はとことんまで突き詰めるように話しあうべきなのだろう。葛がここ最近感じるのは葵が故意にこの家を避けている気配だった。仕事の依頼があれば飛びついて出ていく。葛が出かけるとなれば笑顔で見送る。その笑顔はどこか癇症的で葵の性質には似合わぬものばかりだった。いってらっしゃいと見送る顔はまるで最期のようで、お帰りと迎える顔はほのかに安堵が感じ取れた。
そこから葛が導き出した答えは一つだ。終焉。二人の暮らしの終焉が近いのだ。葵はきっとそれを知っているのだろう。だから葛が出かけるたびにもう会えないかのようにその背中を瞳に灼きつけ、お帰りと出迎える顔は安堵に満ちている。だからと言って葛に出来ることはない。出来うるなら葛とて葵と二人で暮らしたい。豪快な葵の手料理にも慣れたし表向きの写真館の雑務や現像などと言った専門技術も身についた。そこへ裏稼業が影を落とす。よくよく考えれば二人の同居など何の保証もない。組織が不要であると決着すればすぐさま引き離されてそれぞれの任につくことになるだろう。葛はそれが少し恐ろしい。そう感じる己がおぞましい。
この穢れを忘れさせてくれたのが葵との交歓だった。しばらくご無沙汰だな、葵はひょっとしたら阿片窟にでも入り浸って商売女を相手にしているかもしれないな、と意地悪く思う。葵がいないと生活できない? そんなわけはない。これまでの人生と葵と同居していた時間とでは比較にならぬ。だがそれでも葵との同居は濃密で意味のあるものだったと葛は思っている。葵は素直に考えたことをぶつけてくるから哲学に基づく沈黙はしない、と言うのが葵の哲学らしい。要するに言いたいことは言いたいときに言う。それでいて多少の裏工作くらいはこなすから硬直化の激しい葛よりはよほど柔軟な性質だ。その葵を戸惑わせる何かがきっと今起きているのだ。葛に出来るのは知らぬふりだけだ。葵と顔を合わせる時間が明確に減っていた。季節の変わり目で体調を崩すこともない葛と違って葵は時々部屋へこもることが増えた。そんなときは食事もしないし部屋から出ない。入ろうとすると鍵をかけるので扉の前に食事ののった盆をおいて葛は引き下がる。具合の悪い姿を見せたくない葵の自尊心は尊重するべきだと葛は好意的にとらえることにしている。それは間違いかもしれないし最善かもしれない。
その日は朝から雨が降りしきる日だった。案の定来客もなく、葵が一件出張を請け負うくらいだ。葛は雑務をこなしながら葵の帰宅を待った。珍しく二人が顔をそろえる機会だと思ったのだ。がたり、という物音が裏口からして葛が駆け付ける。機材の入った鞄を下ろした葵がずぶぬれで項垂れていた。
「葵? どうした。仕事の方が上手くいかなかッ――」
「葛、抱いて」
葵の手が後ろ手に裏口の鍵をかけた。タイを解き上着を脱ぎシャツの釦へかかる指先が震えている。その震えが寒さばかりの所為ではないことくらい葛にだって判る。
「落ち付け、葵。機材や仕事の方は」
「機材は防水梱包してある」
ほっと肩を撫でおろしたところで葛は葵にのしかかられた。そのまま板張りの上へ押し倒される。濡れ鼠の葵は脱皮するように服を脱いで同時に葛にもそれを要求した。獣の交歓だった。事が済むなり葛は葵を風呂場へ追い立てた。葵も素直に従う。残して行った機材を葛が一つ一つ点検する。防水梱包を解いて故障や不具合がないか見ていく。撮影は上手くいったようで後はこれの現像を上手く進めればよいだけだ。葛はフィルムを持って暗室へこもった。乱された服装を整えて気付く。葵の頬を濡らしていた温い滴と。貫くほどに強く凝視されていたことと。葵の眼は、葛の体や顔や髪やそういったあらゆるものを網膜へ灼きつけるように丹念に眺めていた。
「葵」
湯を使う気配がする。しきりに降る雨音が葛の脳を犯す。ざあざあざあざあざあざあざあ。何かがほらある、何がある、何かがほらほら、どうして気付けないの。葛は迷いを振り払ってフィルムの現像作業を始めた。
嘘のように晴れ渡る日だった。葵はあれから通常通りに表面上は戻った。軽口も利くし料理も豪快な味付けだ。だから葛は見逃すところだった。葵は裏稼業が入ったからと出かけることになった。
「じゃあね、葛ちゃん」
ひらひらと手を振って。帰りが遅くなるなら裏口を開けておく、と声をかける葛に葵は慈愛の笑みを浮かべて、ありがとうとだけ言った。その日は遅くになっても戻らなかった。任務が数日に及ぶことさえ頻繁である。だから葛は気づくのが遅れたのだ。
きっかけは些細なことだった。掃除ついでに葵の部屋も掃除するかと思ったのだ。扉を開けた葛は戦慄した。『残って』いたのは調度品だけでそこに人が暮らしていた形跡はなかった。寝た跡のない寝台。葛は半狂乱になって部屋中を見て回った。箪笥の抽斗や机の抽斗をひっくり返す。寝台も椅子も机も本棚さえ空で、主がここへはもう来ないと知っている顔だった。空っぽで出てくるのは反古紙や埃ばかりだ。床の上の埃の後に気付く。食事をとるために扉までいって盆を回収してこの部屋の中央で食事をし、また盆を返しに行く。その高低がうっすらと積もった埃の厚みの違いで知れた。
「あ、お、い」
くずおれる様に葛は膝をついた。どっと吐き気が襲った。逃げるように泳がせた目線の先、寝台の整えられた毛布の上に封筒があった。葛の手が震えて封を切る。便せん一枚しかない。そこにあったのは葵らしい豪快な筆での手紙だった。
『気付かないふりをしてくれて、気づかないでいてくれて、ありがとう。
葛のそういうとこ、好きだよ。ずっとそのままでいてね。大好きだよ。 三好葵』
それはもう葵が戻ってこない証で。
「うわぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁあ」
だん、と葛の拳が床を殴りつける。がんがん、と続けてびりっと電撃のように痛みが走った。それは神経に及んだようで腕がしばらく動かせなかった。打ちつけた拳の床との接触面が紅く腫れて血がにじんでいた。遮光布さえ取り除かれたその部屋はすぐにでも新たな住人を迎え入れられる状態だった。それほど綺麗に、葵は立ち去った。葛の中でに後悔が渦巻いた。あの時もっと注意していれば。止められたかもしれない? そんなこと判らない。組織からの命令だったなら葛になすすべはない。葵も葛も、組織にとっては戦力の駒でしかないのだ。駒同士がくっつこうが離れようが組織は留意などしない。
窓から空が見えた。晴れ渡っている。葛は行儀悪く胡坐をかくと隠しから煙草を取り出した。燐寸を擦って火をつけ、手首の返しで燐寸を消す。深く吸い込む煙草の煙が沁みた。そう言えば葵はあまり煙草を喫まなかったな、と思い至る。若干の違法性を持つ煙草は葛に平静を取り戻させた。
「俺に引きとめる権利は、ないか…」
便せんを丁寧に畳むと封筒へ戻し、葛はそれを自室の机の抽斗へ隠した。
ほどなくして葛にも通達があった。個人でこなしてほしい任務があることと、拠点移動のために写真館を畳むこと。葵と顔を合わせなくなってから葛も忙しかったし、写真館と言う特に日常的に必要とする職種でないことが幸いして、葛は必要最低限の近所にだけ挨拶回りをしてから写真館を畳んだ。葵がいないことを指摘されたり問われたりするたびに葛は真面目な顔で「別の方へ回っています」と判を押したように繰り返した。事実そうとしか言いようがない。連れて来いと言われても葛に葵の所在は知らされていないし、また別の『三好葵』ではない名前で活動しているかもしれないのだ。『伊波葛』がそうであるように。
花弁は一片一片落ちて行っていた。葛がそれに気付かなかっただけだ。その一片はすぐさま風に攫われて。
最後の一片を、あの手紙を、葛は処分できなかった。だがそれさえも組織は赦さないだろう。
葛は開けた野原で手紙に火をつけた。燐寸と一緒に燃えていくのをじっと見つめる。葵の片鱗を俺は燃やして消そうとしている。めらりと燃える火が葛の黒曜石の双眸に映り込む。葛は手紙が完全な灰の塊になってもその場を動かなかった。空を見上げた。抜けるような蒼穹を、葵は好きだと言っていた。あぁ、俺も好きだな。葛は栓ないことを思う。おもう。想う。
この空の下で君が生きていてくれるなら
それ以上はおこがましいな、と笑う。同じ空の下で暮らせているならそれで、良いと。
かずら!
声が聞こえたような気がして葛が振り向く。ふわりと微笑んだ。そこには誰も、いなかった。
《了》